秋葉原駅昭和通口を出て、昭和通りを日本橋方面(右手)に歩いて和泉橋を渡った左側に、ちょっとしたスペースがあります。
ここに案内板(立て札)がありましたのでご紹介しておきます
春と秋の年2回ほど行われる『岩本町・東神田ファミリーバザール』メイン会場?の入り口付近にそのスペースはあります。
江戸幕府が開かれた慶長年間(一五九五~一六一五)になると、神田川の工事が行われ川の南側に土手が築かれました。特に、駿河台東端から浅草橋までの土手は、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えた逸話もあり、また8代将軍徳川吉宗の時に再び柳を植えたことから「柳原土手」と呼ばれました。
この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが居住する武家地や火除明地や籾蔵の設置場所などでした。その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う簡素な露店が設けられ、江戸市中の古着マーケットの一つとなりました。
明治六年(一八七三)になると土手は崩されますが、古着を扱う露店は引き続いて営業しました。さらに、明治十四年(一八八一)には、現在の岩本町三丁目十番地及び神田岩本町一番地の一帯に、東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心となりました。
大正一二年(一九二三)九月の関東大震災では、この地区も甚大な被害を受けます。そして、震災復興の区画整理により、それまで営業していた露店は取り払われました。また、第一次世界大戦後になると、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から洋服に、特に廉価な既製服へと代わりました。そのため、この地区でも和服に代わり既製服を扱う店舗が増加し、「洋服」の町へと変貌していきました。
戦時下には統制経済の影響も受けますが、戦後、特に昭和三十年代になると東京の衣類業界も復興を遂げ、また技術革新も進み、この地区は洋服の一大生産地となり、全国のデパート専門店などのウインドーを彩るファッションの発祥地となりました。
平成十一年三月
江戸時代、この界隈(かいわい)を流れる神田川の土手は、柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれていました。岩本町(いわもとちょう)周辺は、江戸城から見れば鬼門(きもん)(北東方向)にあたります。柳森(やなぎもり)神社(現・神田須田町二丁目(かんだすだちょうにちょうめ)の社伝によれば、太田道灌(おおたどうかん)が鬼門除(よ)けに稲荷(いなり)を祀(まつ)り、柳を植えたのが始まりといわれています。
そんな柳原土手に沿った地域に最初に住んだのは、大名や旗本(はたもと)などの武士たちでした。江戸時代の後半になると、商人や職人で町も栄えはじめます。さらに土手の周辺では、古着を扱う露店が集まるようになりました。
その伝統は、明治維新後も引き継がれました。明治十四年(1881年)、現在の岩本町三丁目の一部から神田岩本町の一部にまたがる大市場が開設されます。「岩本町古着市場」と呼ばれたこの市場には、多いときには四百軒もの古着屋が軒(のき)を連ねていたと伝わっています。さらに昭和に入ると、町内には四階建てのビルまで登場し、「和泉橋(いずみばし)ダンスホール」が併設されました。
このように洒落(しゃれ)て小粋(こいき)な雰囲気を醸(かも)していた戦前の岩本町ですが、太平洋戦争末期には空襲によって跡形もなく焼き尽くされてしまいました。それでも戦後、この地は「服の町」としてよみがえります。紳士服や婦人服の製造を手がける繊維メーカーが集まってきて、この町でつくられた洋服が全国のデパートのショ
ーウインドーを飾るようになりました。
現在、数こそ減ってきましたが、岩本町三丁目をささえ、町の礎(いしずえ)を築いてきたのは、こうした繊維業者です。日本の繊維産業とともに発展してきた町、それが岩本町三丁目なのです。
(案内板より)
『岩本町・東神田ファミリーバザール』は衣料品だけではなく、靴やキッチングッズ等もお買い得価格で販売されておりますので、機会があれば是非見に行ってみてください
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