浅草寺「大わらじ」

歴史・由来の立て札

先日、お友達と浅草にある浅草寺に行った時の事

浅草寺観音堂手前にある宝蔵門に大きなわらじを発見しました

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浅草寺『大わらじ』

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今まで何度か足を運んではいたのですが、気が付きませんでした(こんなにデカいのに?)

何とも見慣れた県名が書いてあるではないですか
何を隠そう、オイラの出身の県(市は違いますが…となれば俄然興味も湧いてきます

『大わらじ』の由来

浅草寺の仁王尊に奉納する大わらじも、今回の製作で第5回を迎えることになったが、そもそもの始まりは昭和4年の秋の事である。
折柄楯岡町青年団主催で藁工品の展示品評会が開催されることになった。当時青年団は町内の中心となって活躍していた。荒町青年団でも当時の幹部元木喜太郎氏(故人)を始め団員一同が集まりいろいろ相談の上、大わらじに挑戦することになったのである。
作業場は元木家の内定になった。いろんな努力の結果、横6尺(1.5m)、楯18尺(4.5m)、重さ120貫(500㎏)の大わらじが完成したのである。
工夫、創造、努力、忍耐、親切、奉仕、融和、それらの結晶がこの大わらじに編み込められ、見事な出来栄えで楯岡小学校の西校舎に陳列された。見物に来た人々は大わらじの大きさに先ず驚き、その格好良さに再び驚いたそうである。折柄丹精こめた大わらじ、大好評を博した大わらじを、このままにするのは惜しい。東京の浅草寺奉納したいものだという若者の夢は大きく膨らんだ。しかし、納めるための志納金、輸送費、人件費等、約2000円必要であったが、その金の捻出が出来ず東京行きは断念せざるを得なかった。
そこで町内の古老達の進めもあって小松沢観音の仁王門に奉納することになった。小雪のちらつく11月末頃、荒町青年団員の外、町内の人々約100余名が橇に載せた大わらじを引いて山道を昇り小松沢観音の仁王門に奉納したのである。
町内は勿論、近郊の町村からも元日参りや、わらじ見物の参詣人が多く小松沢観音は大賑わいとなった。
写真を撮りに来たのは当時の幼年倶楽部(講談社発行)の記者が最初であった。「日本一の大わらじ」という見出しでグラビアに載ったのである。未だ一般にはカメラなど普及していなかった時代である。
その後、時の衆議員議員松岡俊三先生(故人)が提唱し奔走された雪害問題が政治的に解決したので、その御礼と日支事変の戦捷祈願を兼ね、昭和16年1月23日、松岡先生が深く信仰しておられた浅草寺に護国の大わらじとして納めることが出来て、一躍楯岡町の大わらじは有名になったのである。当時大政翼賛青壮年団長であった原田敏雄氏(故人)並びに楯岡荒町出身で東京在住の矢矧吉之助氏(故人)の物心両面での協力援助が多大であったことを聞いている。
浅草寺は昭和20年3月10日の大空襲により灰燼に帰した。その後、復興再建された際に郷土出身の大彫刻家村岡久作氏が宝蔵門仁王尊を彫刻されたその記念に、新しいわらじを寄進する運びとなり、昭和39年4月11日に奉納した。しかもその時の輸送は、当時第一貨物(株)の社長であった喜早謹吾氏(故人)が無料奉仕されたのである。その後、昭和47年3月、同53年10月と寄進を重ね、山形県の大わらじ、村山市の大わらじは、浅草寺と共に日本中に有名になった。この度、第5回奉納(昭和63年10月30日)をむかえるにあたり、過去を振り返り、関係者一同一段の努力と決意を新たにするものである。
この「大わらじ」の由来は、元小松沢観音堂宮林明道師の覚書と実行委員会において、町内有志諸賢の見聞をもとに作成したものである。

昭和63年1月
浅草寺奉納大わらじ荒町製作実行委員会

ちなみに、再度新調したものが平成30年秋に奉納される予定との事です・・・村山市HP

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「大わらじ」
 この大わらじは、山形県村山市の奉讃会によって奉納されている。延べ人員800人、一ヶ月をかけて制作されたものである。藁2500キログラムを要し、大変な労力が必要で、まさに信心の結晶といえる。昭和16年(1941)の奉納を最初に、宝蔵門再建後は、約10年に一度作られている。全長は4.5メートル。
 わらじは、仁王さまのお力を表し、「この様な大きなわらじを履くものがこの寺を守っているのか」と驚いて魔が去っていくといわれている。また、健脚を祈ってこのわらじに触れていく人もいる。
金龍山 浅草寺(説明文より)

こんな所でも故郷の偉人たちは活躍していたのでした
いまだに何も成し遂げていないオイラは、本当に頭が下がる思いですm(__)m

簡単更新、失礼しますm(__)m


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コメント

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