昭和通りと金物通りとの交差点が紺屋町交差点です
その交差点から金物通りを中央通り方面に歩いて、丁度中間あたりの右側に立て札がございましたのでご報告まで…
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神田紺屋町(南部)
この界隈の立て札は、デザインが独特です『参考までに』
この界隈(かいわい)は、慶長(けいちょう)年間(1596年~1615年)に徳川家康から軍功として関東一円の藍(あい)の買い付けを許されていた紺屋頭土屋五郎右衛門(こんやがしらつちやごろうえもん)が支配していた町でした。そのため、町には五郎右衛門の配下の染物職人が大勢住んでおり、いつしか「紺屋町(こんやちょう)」と呼ばれるようになったのです。
江戸を代表する藍染めの浴衣(ゆかた)と手拭(てぬぐい)の大半は、紺屋町一帯の染物屋で染められました。「その年の流行は紺屋町に行けばわかる」と言われていたほどで、紺屋町の名物が江戸の名物でもありました。つまり、ここが流行の発信地だったわけです。ちなみに、「場違い」という言葉がありますが、これは紺屋町以外の地区で染める浴衣や手拭い染めのことを、江戸の人がそう呼んだことに由来するそうです。
町内には古くから藍染川(あいぞめがわ)という小川が流れていました。幅一間(約1.82メートル)ほどの川で、染物の布を洗い流していたことから、そう呼ばれるようになったそうです。「狂歌江都名所図会(きょうかえどめいしょずえ)」には、「紺屋町近くにありて藍染の川の流れも水浅黄(あさぎ)なり」などの歌が詠(よ)まれており、江戸では有名な川であったことがわかります。
万治(まんじ)年間(1658年~1661年)、あるいは天和(てんな)年間(1681年~1684年)には、紺屋町の南方(現在の神田美倉町(かんだみくらちょう)、神田東紺屋町(かんだひがしこんやちょう)、神田西福田町(かんだにしふくだちょう))に火除地(ひよけち)が設けられました。明暦(めいれき)三年(1657年)の「明暦の大火(振袖(ふりそで)火事)」をはじめ、火災が相次いだことを受けて、幕府が神田堀一帯の民家を取り払い、土手を築き、松の木を植えました。のちに土手の南側には掘割ができましたが、その堀の長さが八町(丁)あったため、「八丁堀(はっちょうぼり)」と呼ばれるようになったそうです。
紺屋町(南)町会
(立て札より)
本日、簡単更新で失礼しますm(__)m
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