神田駅前「鍛冶町二丁目」界隈の地図

歴史・由来の立て札

神田駅東口出口は、中央通りを山手線などの電車が横切るガード下にあります。

その中央通りの横断歩道を渡ったところに立て札を発見しましたよ

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神田と言えば祭りを連想するのはオイラだけでしょうか?

きっとそんな方は多いハズ

立札も祭りの?半纏の形をしています

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「鍛冶町二丁目」界隈(平成15年・2003)

その名が示すとおり、江戸時代や明治時代、この界隈(かいわい)には金物を扱う流通業者や小売業者が集まっていました。
鍛冶町(かじちょう)の名前のはじまりは江戸時代にさかのぼります。この近辺に幕府御用を勤める鍛冶方棟梁(かじかたとうりょう)だった高井伊織(たかいいおり)が屋敷を拝領し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。
この二丁目界隈(かいわい)は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀(なぎなた)といった打物(うちもの)を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。
そのほか、鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、江戸後期にはじつにバラエティ豊かな店がそろっていました。文政(ぶんせい)七年(1824年)の「江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)」には、下駄(げた)の鼻緒を扱う問屋や、書物問屋、さらには薬の小売業者までいたことが記されています。「江戸名所図会(えどめいしょずえ)」からは、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道(げたじんみち)」と呼ばれる裏通りがあったこともわかります。
戦後、日本の復興期には、家庭金物店、建築金物店、銅・真鍮(しんちゅう)・鉄販売店などが軒(のき)を並べ、神田駅南口から東神田までの大通りは「神田金物通り」としてにぎわっていました。
昭和二十二年の区画整理で、黒門町(くろもんちょう)、上白壁町(かみしらかべちょう)、下白壁町(しもしらかべちょう)、紺屋町(こんやちょう)、松田町(まつだちょう)、鍋町(なべちょう)、塗師町(ぬしちょう)、新石町(しんこくちょう)、竪大工町(たてだいくちょう)、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。さらに、昭和四十九年(1974年)に住居表示が施行されると、神田の文字がはぶかれ「鍛冶町二丁目」と名前を変えて現在に至っています。

鍛冶町二丁目会(千代田区HPより)

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こちらは英語での説明(たぶん
分かる方は翻訳をお願いしますm(__)m

昔の地図と比べてみると「竜閑川」が千代田区と中央区の境になっているのが良く分かりますね

そして鉄道が街並みには関係なく造られた様子が垣間見れます

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