「日本橋魚河岸跡」乙姫広場

歴史・由来の立て札

日本橋の北詰の東側に、「日本橋魚河岸跡」がありました。

ここは東京都中央卸売市場の中で最も古い歴史を持つ築地市場の前身で、おおいに賑わっていたという事です。
その築地市場も今年(平成28年11月7日)には豊洲市場へと移転する事になっています。

乙姫像の側には、「乙姫広場」との石板が埋められています。
なぜ乙姫広場というかは定かではありませんが、お魚がいっぱい集まってくる…的な事なのでしょうか

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「日本橋魚市場発祥の地」

本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり, 遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝへ運送して, 日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所図会にのこれる 日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり, 旧記によればその濫觴は遠く天正年間, 徳川家康の関東入国と共に, 摂津の国西成郡佃大和田両村の漁夫三十余名, 江戸にうつり住み, 幕府の膳所に供するの目的に漁業営みしに出づ, その後 慶長のころほひ幕府に納めし残余の品を以て, これを一般に販売するに至り, 漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ, 市場の形態漸く整ふ, さらに天和貞享とすゝみて諸国各産地との取引ひろくひらけ, 従ってその入荷量の膨張驚くべきものあり, かくしてやがて 明治維新の変革に堪へ, 大正十二年関東大震災の後を受けて, 京橋築地に移転せざるのやむなきにいたるまで, その間じつに三百余年, 魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地として, よく全国的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁栄をほしいまゝにするをえたり, すなはちこゝにこの碑を建てる所以のもの, われらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらず, ひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり。

東京に江戸のまことのしぐれかな

昭和二十九年三月,旧日本橋市場関係者一同に代わりて

日本芸術院会員 久保田万太郎 撰
日本芸術院会員 豊道慶中 書

(乙姫像?地碑より)

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「日本橋魚河岸跡」

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町 (現在の室町一丁目・本町一丁目一帯) の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板 (板舟) を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
この魚河岸は、大正十二年 (1923) の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
(説明案内板より)

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