秋葉原駅電気街口付近に立て看板を発見
この辺りは連日賑わっていて大勢の外国の方々なども買い物などを楽しんでいます。
今や観光スポットの一つとなっています
そして、電気屋さんが所狭しと並んでいます。
この一帯は、橋の名にちなんで「萬世橋(まんせいばし)(万世橋)」と呼ばれています。萬世橋の名前は、明治六年(1873年)、昌平橋(しょうへいばし)よりもやや下流に架けられた「萬代橋(よろずよばし)」に由来します。いつのころからか人々はこの橋を「まんせいばし」と呼ぶようになり、明治三十六年(1903年)にほぼ現在の場所に架け替えられました。
江戸時代、この界隈(かいわい)は、下谷御成道(したやおなりみち)へ出る道筋にあり、人の行き交う町でした。またここは神田川河岸で、年貢米や野菜などを運び込む水運の拠点でもありました。江戸時代の地図にある「神田通船屋敷(かんだつうせんやしき)」は、幕府が手がけた見沼代用水(みぬまだいようすい)の難工事に協力したことで、将軍より用水路の通船を許可された高田家の屋敷でした。
当時武家地だった神田仲町(かんだなかちょう)と神田花房町(かんだはなぶさちょう)は、享保(きょうほう)年間(1716年~1736年)に町屋となり、商人や職人が移り住みます。また、神田花田町(かんだはなだちょう)は、明治二年(1869年)、武家地だった花房町代地(はなぶさちょうだいち)と須田町代地(すだちょうだいち)をあわせ、両町から一字ずつ取ってできた町です。地元の萬世橋町会は、戦後その三つの町にまたがって成立しました。昭和三十九年(1964年)、住居表示の実施により、これら三つの町は外神田一丁目(そとかんだいっちょうめ)に変わりました。
萬世橋地区のなかでも、秋葉原(あきはばら)のあたりには、戦前からすでに電気部品やラジオなどを扱う卸問屋(おろしどんや)や小売店がありました。しかし、戦時下の空襲により、この一帯は焼け野原となってしまいます。そんな秋葉原駅のガード下に、昭和二十四年(1949年)、連合軍の命令で、須田町や小川町界隈にあった電気関係の露天商が移動させられたのです。こうして秋葉原は、世界的に有名な電気街として発展することになりました。
駅名にもなっている「秋葉原」の名前は、明治二年の大火の後、広大な火除地(ひよけち)ができ、そこに鎮火神社(ちんかじんじゃ)が祀られ(まつられ)ました。静岡の秋葉神社(あきばじんじゃ)が、火伏せ(ひぶせ)の神社だったことから、「あきばのはら」または「あきばっぱら」と呼ばれるようになったといいます。神社の社(やしろ)は、台東区下谷(したや)に移された後、現在はJR秋葉原駅の駅長室にその分社が祀られています。
外神田一丁目萬世橋町会(千代田区HPより)
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