日本橋小舟町「伊勢町堀(西堀留川)跡」

歴史・由来の立て札

日本橋小舟町にある小舟町交差点付近で立札を見つけましたのでご報告いたします

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人形町交差点より金座通りを日本橋方面へ向かったところにあります。

『金座』とは江戸時代に幕府で金貨鋳造や鑑定・検印を行った場所や組織の事で、日本銀行の場所にありました。

ちなみに『銀座』とは江戸時代の銀貨の製造工場である銀座会所と、通用銀貨の検査や銀地金の購入などを扱う銀座役所を総称した組織の事でした(参考記事)

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伊勢町堀(西堀留川)跡
所在地
中央区日本橋本町一丁目六〜八番・日本橋本町二丁目六番
   日本橋小舟町一〜四番
   日本橋室町二丁目三番・日本橋本町二丁目四〜六番
 江戸時代初期から昭和初期まで、日本橋本町一丁目と日本橋小舟町の境界沿いには掘割(明治中期頃まで「伊勢町堀」と称し、後に「西堀留川」と名称変更)がありました。
 この掘割は、日本橋川から北西に入り込み、旧堀留町一丁目(現在の日本橋本町の前で留まる“かぎの手状の入堀”でした。日本橋地域の中心に位置するこの船入堀には、穀物や乾物を中心に全国各地から物資が運ばれ、河岸地は荷揚げ場として大いに利用されていました。
 米蔵が建ち並んでいた堀の西岸は、江戸に輸送されてきた廻米の陸揚げ地であったことから「米河岸」と呼ばれ、鰹節や塩干肴の問屋が多かった小舟町に面する東側は、「小舟河岸」と呼ばれていました。さらに、西に折れた入堀の河岸地は、周辺に塩問屋があったことから、「塩河岸」(明治十年、北岸は「北塩河岸」、南岸は「南塩河岸」の名称となる)と呼ばれていました。
 江戸時代以来、大量の回漕物資が集積・荷揚げされたこの掘割は、明治十九年(一八八六)に西側に屈曲した入堀部分が埋め立てられ、昭和三年(一九二八)には関東大震災後の区画整理事業で残りの入堀が埋め立てられてその姿を消しました。
 当地の様子を描いた『江戸名所図会』には、舟運と荷揚げの便が図られていた頃の挿絵があり、往時の繁栄ぶりがうかがえます。
平成二十六年五月  中央区教育委員会

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