いつものように、人形町界隈をぷらぷらしていましたら、「スターバックス・コーヒー 人形町店」さんの店先に、立て札がございましたのでご報告させていただきます
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『堺町・葺屋町芝居町跡』
人形町交差点から水天宮通りを岩本町方面へ向かった左側にあります
『堺町・葺屋町芝居町跡』
所在地 中央区日本橋人形町三丁目二~七番地域
堺町は慶長年間(1596~1615)に沼地を埋め立てて起立されたといわれ、明暦二年(1656)のころには西半分の上堺町が葺屋町として分かれ、東半分の下堺町は堺町として残りました。
江戸時代、この辺りには芝居小屋やそれらを取り巻く茶屋などが集まっており、大変賑っていました。芝居小屋のなかには、江戸三座と呼ばれた官許の芝居のうち、歌舞伎を興行した中村座と市村座(ほかに現銀座六丁目あたりの森田座)があり、このほかにも人形浄瑠璃の芝居小屋も多数ありました。江戸三座筆頭である中村座は、京より江戸に移り住んだ猿若勘三郎が、寛永元年(1624)に猿若座(後の中村座)を中橋南地(現京橋一丁目辺り)に創設し、これが現在につながる江戸歌舞伎の発祥となりました。寛永九年には禰宜町(現日本橋堀留町一丁目辺り)に、慶安四年(1651)には下堺町へと移転し、二代勘三郎のとき本姓の中村を名乗り「中村座」と改称しました。この間、堺町では、上堺町において寛永十年に都座が、寛永十一年には村山座(後の市村座)が創設されました。
歌舞伎に先んじて京より下ってきたのが人形浄瑠璃でした。猿若座と同じ中橋の地において、元和三年(1617)には興行が始まっていたようです。やはり寛永九年禰宜町移転を経て、慶安四年下堺町に移されました。人形浄瑠璃の芝居小屋は、江戸、薩摩、丹波、天満、土佐、虎屋、肥前など、数多くありました。
堺町・葺屋町の芝居小屋は、天保の改革により天保十三年(1842)から翌十四年にかけて、猿若一丁目から三丁目(現台東区浅草六丁目辺り)を起立してそこに移されるまで、二百年前後この地にありました。
近年、日本橋人形町三丁目において発掘調査が行われ、茶屋や芝居に関する遺物も出土しています。
平成二十三年三月 中央区教育委員会(説明文より)
最近、立て札率が多いですが悪しからず・・・
今後、改善していく予定でございます
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