COREDO室町 福徳神社由来

歴史・由来の立て札

先週からの続きの、簡単更新にビックリ

日本橋北詰商店街に神社がありました

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福徳神社由来

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高層ビルの合間に大きな空間があり、そこに福徳神社が建っています

宝くじの当選祈願で多くの方たちが訪れるそうですよ

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福徳神社由緒

当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物・食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家、太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正十八年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九年に参詣し、「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を三百三十坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成二十六年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往事の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った。
(石碑より)

当社の創祀された時は明らかではありませんが、当社に伝わる略記によると、貞観年間(清和天皇・八五九~八七六年)には既に鎮座していたようです。

 武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として祀られ、その地名をとって社号としました。

 その鎮座する社地は広く、社殿も宏壮で、社の四隣は森林、あるいは田畑に囲まれ、農家が散在する片田舎でした。土地の人は神社の森を稲荷の森、その森の一端に建てられていた里程標(石造一里塚)を「稲荷の一里塚」と呼び親しんでいました。
後の明暦三年酉年(一六五七)正月八日の大地震により、一里塚は崩壊してしまいました。
当時の人々は、この散乱した碑石の残存した破片を集め保存したと考えられています。

(福徳神社HPより)

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犬の散歩は禁止との事です

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宮戸川邊り宇賀の池上に立る一里塚より
此福徳村 稲成森塚迄一里
(石碑より)

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