西郷隆盛屋敷跡

歴史・由来の立て札

いつもご覧いただきましてありがとうございますm(__)m

緊急事態宣言が今月末まで延長となってしまいましたが、街中の人出を見てみるとあまり変わりなく多いです本当にこんな状況で大丈夫なのだろうかと心配になってしまいます

なかなかワクチン接種が進んでいないようですが、改めて皆さんお気を付けくださいませ

さて、先日人形町近辺をふらふらと歩いてると、小学校の前に立札を発見しましたのでご報告いたします

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西郷隆盛屋敷跡

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現在、中央区立日本橋小学校・日本橋図書館・日本橋社会教育会館などが複合して建っています

明治初頭に西郷隆盛の屋敷があった場所で、それ以前の江戸時代末期までは姫路藩酒井氏の藩邸があったそうです

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西郷隆盛屋敷跡
所在地 中央区日本橋人形町1丁目1番
       日本橋小網町14番
       日本橋蛎殻町1丁目10~13番地域

明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷がありました。
明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町一丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。 屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
維新後、西郷は郷里鹿児島にいましたが、明治4年に新政府から請われて上京し、参議に就任、同年10月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
明治6年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました。(明治6年の政変)。

下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治10年に西南戦争を起こし自害しました。

平成19年3月

中央区教育委員会(案内板より)

「西郷隆盛」と聞いてパッと思い浮かぶものに、上野公園に建つ銅像があるのではないでしょうか
実はあの像は全然本人に似ていないという話は有名で、以前放映されていたNHKの大河ドラマ『西郷どん』でも、「こいはうちの人じゃなか!」というシーンがありました(確か…。)よね

また写真嫌いだったので、一枚も残されていないらしいです

昔は本気で写真の事を「魂を吸い取られる」などと考えていた人が居たようです。
しかし今よくよく考えてみると、その当時は写真がある事で顔が割れ、暗殺される可能性があったのかも…、となると間接的に、実際に「魂を吸い取られる」という事になったりしたのかもしれません

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コメント

  1. kaz より:

    P兄 今日は愛犬の日ですが…笑

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