神田駅西口の近くに立札を発見しました
かなり狭い歩道に立っているので、ゆっくり読んでいる事が出来ません
この状況は興味のある方にとっては、ちょっと残念な環境です。
しかし、そんな方々の為に何とか写真に収める事が出来ました(恩着せがましい!)
江戸時代、この界隈(かいわい)には神田竪大工町(かんだたてだいくちょう)や新石町一丁目(しんこくちょういっちょうめ)といった町がありました。いずれも、商人や職人が集まり住んだ町で、寛永(かんえい)年間(1624~1644)には町が成立していたことが、「寛永江戸図(かんえいえどず)」などからわかります。
このうち竪大工町には、幕府の御用を請け負った大工たちが多く住んでいました。講談や落語で知られる大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の名奉行(めいぶぎょう)ぶり、「三方一両損(さんぼういちりょうぞん)」に登場する大工の吉五郎(きちごろう)もこの町の住人でした。また、火消し組の纏(まとい)をつくる「纏屋治郎右衛門(まといやじろうえもん)」の店も、この町にありました。
一方、新石町一丁目は、俗に「河合新石町(かわいしんこくちょう)」とも呼ばれていました。明暦(めいれき)三年(1657)の「新添江戸之図(しんてんえどのず)」にはすでに「新こく丁」の表記が見られます。
ふたつの町は、それぞれ竪大工町、新石町と改名しながらも、昭和初期まで存続していましたが、昭和八年(1933)、新たに多町一丁目(たちょういっちょうめ)となり、町会を結成し、また一部は鍛冶町二丁目(かじちょうにちょうめ)に編入されました。
昭和四十一年(1966)、昭和にできた多町一丁目は、住居表示の実施により内神田三丁目(うちかんださんちょうめ)と変わり、現在に至っています。
多町一丁目町会
(千代田区町名由来版より)
やはり、この界隈は江戸時代の中心的な場所だったんですね
コメント