株式会社東京米穀商品取引所跡

歴史・由来の立て札

いつもご覧いただきましてありがとうございますm(__)m

いよいよ新型コロナウイルスのワクチン接種が始まりました
G7(主要先進国)の中では最も遅い接種開始となりましたが、一刻も早くみんなに行き渡って欲しいものです
今後の対応を見守っていきましょう

さて、先日またまた日本橋界隈をウロウロとしておりましたら、我が家にゆかりのある?立札を発見しましたのでご紹介します

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株式会社東京米穀商品取引所跡

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水天宮前交差点より蠣殻町交差点へと歩いて行った中間地点付近の左手に…

おっ、久しぶりに立札発見

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も~少し近づいてみると、こんな感じ

『米穀商品…』

『米穀』と聞いたら、見逃す事はできません
実はオイラの実家は、以前米穀店だったのです(今もお米屋さんやってますが…

参考記事→「美味しいご飯の炊き方」三代目米屋の息子が教えます

そんな訳で紹介しておきます

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株式会社東京米穀商品取引所跡

所在地 日本橋蛎殻町1丁目12ー4

明治政府が施工した租税制度改革によって、これまでの米穀物納から金納に改める新しい税制が導入され、米穀の商品化が進みました。東京・日本橋には、明治初年に定期米売買(先物取引)を行う兜町の「東京商社」(前身は築地外国人居留地に「貿易商社」)や蠣殻町の「中外商行会社」が設立されました。
両社はそれぞれ兜町・蠣殻町の米商会所として返還の末、明治16年(1883)に合併し、日本橋区蠣殻町の米商会所建物において「東京米商会所」を開業しました。その後、明治26年(1893)発布の取引所法令によって「株式会社東京米穀取引所」となり、明治41年(1908)には株式会社東京商品取引所(木綿・錦糸・生糸・塩・肥料等が取引商品)と合併し、称号を「株式会社東京米穀商品取引所」と改称しました。
株式会社東京米穀商品取引所では、米穀を中心として各種商品の取引も行われ、明治44年(1911)には資本金を300万円(6万株)に増資して本格的な取引市場(商品取引所)となりました。特に東京における米穀の投機市場であった蠣殻町の米穀商品取引所は、大阪の堂島米市場・大阪堂島商品取引所とともに二大市場として知られていました。しかし、昭和14年(1939)に上場品である米穀の統制が実施されたことで存在意義を失い、約30年の売買取引の歴史に幕を閉じました。
なお、戦後の雑穀統制解除を契機として、昭和27年(1952)には旧東京米穀商品取引所の建物において農産物の先物取引を行う「東京穀物商品取引所」が設立されました(平成23年に日本橋堀留町へ移転、平成25年に立会停止)。
平成31年3月
中央区教育委員会(立札より)

立札の下半分は異国の言葉ですので、割愛させて頂きますよ

現在、細々と商いをしているのはオイラの親父(3代目米屋)
初代の曾祖父(初代米屋)が商売を始めた年代はちょっと調べないと分かりませんが、大正~令和にかけて曾祖父~オイラと、「同じようにこの辺りを歩いていたのかなぁ~(出張などで来たりね」などと、そんな風に思いを馳せるのでした

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コメント

  1. 嫁ちゃん より:

    曾お爺さんはつるんつるんの方でしたっけ?←!
    その昔、もしかしたらここに来たかもですね(*´艸`)
    今度実家に帰ったらお父さんに聞いてみましょ♪

  2. ぷーたん より:

    >>嫁ちゃんさんへ
    早くコロナが収まってほしいものです(^_-)-☆

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